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アダルトチルドレンからの回復
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教育: 2009年4月
自己破壊からの離脱
かねて、ひきこもりを経験したAC(アダルトチルドレン)の青年たちと接していると、「普通にな
りたい」「普通になれればいい」といった声をよく聞きます。
この“普通”という表現がとても悲しく響きます。
普通でないというのは、小学校、中学校、高校、大学、社会人という道筋をあたりまえに通っ
てこなかったということです。
友だちがいて、彼女がいて、お酒を飲んで、カラオケ行ってと、誰もがそれこそ普通に経験し
てきたであろうことを自分が経験してきていないことを嘆きます。
確かに他者と、特に同世代と共有できるものが少ないという事実は、孤立感や疎外感を感じ
るでしょう。
しかし、何が普通で、何があたりまえなのでしょうか。
私が話を聞いていていつも感じるのは、この青年たちは、彼らが思う“普通”“あたりま
え”に、不登校やひきこもりになる前から、過度に自分をあてはめようとしていたのではない
かということです。
もちろん、先に述べたように、共有できなかったことから、それを強く求めるのであろうことは
分かります。
しかしそれでも、“普通”の求め方が違うのです。
中には、高校を中退し、通信制高校や定時制高校を卒業したことを強く否定的にとらえてい
る青年もいます。
自分が他より劣っている根拠にしているのです。
だいたいこういった場合、親がそのことを否定的にみてしまっていることが多いようです。
「大学ぐらい出ていなければ、ろくな大人になれない」と言われて育った青年が、大学を中退
し、その自分を徹底的に否定していたこともありました。
彼らはそれ以降、何に対しても挑戦することに怯えるようになってしまっています。
経験から学習したものが少ない理由からです。
過度な遅れ感から、心的負担が全て痛みに変わり、それはもう痛々しいかぎりです。
さながら、ワニに皮を剥がれた稲羽の白うさぎのようです。
騙されて海水で洗ったものですから、風が吹くだけでも激痛がはしります。
この状態から離脱するためには、視点の切り替えが必要です。
視点が変われば、新たな気づきを得られます。
視点の切り替えは、価値観の転換です。
何を“普通”“あたりまえ”とするのかも価値観によって変わってきます。
幸福感だって変わってきます。
最初に述べたような一般的な道筋を通ってこなかったら、不幸なのでしょうか?
人と違う人生では幸せになれないのでしょうか?
決してそんなことはありませんよね。
人もうらやむ贅沢な生活をしている人たちが、皆幸せでしょうか。
そうでない事例はいくらでもありますね。
それぞれの幸、不幸はそれぞれです。
「人生万事塞翁が馬」ということわざもあります。
何が自分にとって幸運になるか分かりません。
要は、価値観に柔軟性をもって、多様な視点をもつということです。
挑戦することへの怯えは、自己破壊的な生き方を選択してしまいます。
皮を剥がされたまま、真っ赤な体で風をよけ続けるのではなく、傷を治すことの方が先決で
す。風をよけるためには、身を潜めなければなりません。
身を潜めているだけでは、時間の経過とともに大きな代償を払わなければならなくなります。
自分が辛いと今思っていることが、本当にただただ辛い不幸な出来事なのか。
目の前の痛みを遠ざけることが、本当に自分を大切にしていることで、痛みを何も感じなくて
すむ生き方になるのか。
そもそも“痛み”はこの世に必要ないものなのか。
リストカットなどの自傷行為は、何ものかを得るための手段として行われます。
生きている実感を得たくて、傷つける人もいます。
ここでは“痛み”が必要になっています。傷みが生きている感覚を呼び覚ましてくれるのです。
しかし、それは自己破壊的な手段です。
得たいものは誤り無くても、手段が誤ってしまっています。
自己破壊的な手段の選択から離脱するためには、“豊かさ”を求める価値観への転換が有
効です。
豊かさは、恵みからもたらされます。
ですから、自分が遭遇するあらゆる出来事を恵みととらえるのです。
恵みということは、何かを得ることができるはずです。
つまり、何かを学べるということです。積極的につかみ取るのです。
学ぶ姿勢は、謙虚さを養います。
謙虚になれば、自分が孤独ではないことに気がつけます。
多くの支えがあることに気づけるのです。
自分を支えている存在がいてくれることに気がつけば、挑戦することへの勇気をもらうことが
できるのです。
勇気はサポーター(応援者)からもらえるのですから。
「人生万事塞翁が馬」であらゆることを肯定すれば、すべてが味方につきます。
味方(サポーター)が増えれば増えるほど、勇気を増して挑戦を恐れなくなります。
『ニート・ひきこもりエンパワー教室』
https://www.interbrain.co.jp/course/empowerment/
AC(アダルトチルドレン)、次世代AC(ACに育てられた子どもたち)の回復援助活動の中
から開発された自己創造技法 『自心観』ゼミナール
https://www.interbrain.co.jp/adultc/
NPO法人地球家族エコロジー協会付設心理教育カウンセリング・オフィス
ふぉーらむ北辰
福岡県大野城市つつじヶ丘6-4-21
https://www.interbrain.co.jp/hokushin/
(NPO法人 地球家族エコロジー協会) 2009年4月29日 16:07
希望がもてない
将来に対して希望がもてないということをよく聞きます。
あなたはどうでしょう。
希望をもてない理由は、過去の実績や現在もちあわせている能力や才能を希望の根拠に置
こうとするからです。
このやり方では、実績も能力もない者の場合は、希望なんか持てるはずがありません。
ないないづくしで、出来ないことばかりに意識が向いていれば、自分が無力で小さく感じられ、
とうてい明るい未来は、想像できません。
そもそも「希望」というものは、何の保証もない不安な未来だからこそ、せめて「きっとより良
くなるはずだ」と自分を奮い立たせるための、人間だけがもつ生きていく智恵なのです。
よく「どうなるか分からない将来なんて希望がもてません」と言う人がいますが、希望の意味、
使い方を間違えています。
どうなるか分からないから希望をもつんです。
そして、これまでの実績などを根拠にするのではなく、先ず今の自分でも出来ることを確認し
ます。
意外に出来ることといいうのは、けっこうあるものです。
出来ることが当たり前になっているので、逆に気づけないんです。
例えば、身体に何らかの障害をもっておられる方は、健常者ができないことが出来たりしま
す。
私も子どものころ、両腕が不自由な女性の方が、足で字を書いたり、物をつかんだりしている
のを映画で観たことがあり、びっくりしたことがありました。
これは、大きなハンディを抱えておられるからこそ、出来ることを明確に認識しておられ、それ
を最大限に活用する術を知っておられるのでしょう。
私たちが固定観念で、出来ないと思い込んでいる限界をも超えた能力を発揮しておられる
のだと思います。
手元に必要な道具がなければ、周囲に在るものを活用しようとしますよね。それと同じです。
何でもあたりまえになっていると、ありがたみが分からず、うまく活用できないものです。
希望をもつためには、将来のありたい姿を鮮明に描くことが大切です。
できるかどうかなど考えずに、純粋に自分が成りたい姿です。
「これが自分らしい」という納得できる姿、状態を描くのです。
そして、今出来ること、今ある条件を活用して、このありたい姿に近づけていくのです。
未来の設計図、脚本を書いて、それを完成させるために必要なことをひとつずつ実行してい
けば、その行動が希望を確信に変えていきます。
自分の将来を信じる根拠になるのです。
過去に出来なかったから、これからも出来ないという理屈は間違っています。
過去にうまくいっていたことが、これからもうまくいくという保証が無いことからも分かると思い
ます。
要は、過去の延長線上にものを考えるのではなく、「今、ここで、私が」何をしていくかです。
希望は私たちの行動の駆動力になります。
これまでにさしたる実績がなく、自信もなく行動力を失くしてしまっている人ほど、希望をもって
生きていくことが必要です。
所詮、何をするかは、頭と手足を動かすだけです。
頭で未来像を描き、足で駆け寄り、手でつかみ取ればいいんです。
『ニート・ひきこもりエンパワー教室』
https://www.interbrain.co.jp/course/empowerment/
AC(アダルトチルドレン)、次世代AC(ACに育てられた子どもたち)の回復援助活動の中
から開発された自己創造技法 『自心観』ゼミナール
https://www.interbrain.co.jp/adultc/
NPO法人地球家族エコロジー協会付設心理教育カウンセリング・オフィス
ふぉーらむ北辰
福岡県大野城市つつじヶ丘6-4-21
https://www.interbrain.co.jp/hokushin/
(NPO法人 地球家族エコロジー協会) 2009年4月10日 09:13 | コメント(1)
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